安倍政権は歴史の教科書か?
選挙が近くなった途端の対韓国タカ派政策は、年金や加計問題から国民の目を逸らす為か? 何ともtraditionalな作戦に騙されるな、日本国民🇯🇵!
四十九日
母の四十九日法要が終わり、実家に仏壇が来て一週間、父が倒れた。
やはり母との思い出が詰まった家で、一人で生きて行くのは寂し過ぎるのか。
10時のコーヒータイム、金曜日の外食を一人で過ごす寂しさに、自分だったら耐えられるだろうか?
法要も終わり、もう、生きる意味を失ってしまったのではないか?
布団から出ているふくらはぎの細さが悲しい。
多摩川の風景
実家に泊まった機会に久し振りに多摩川の堤防を走ってみる。実家の近くから小田急線の鉄橋迄の往復は約5kmだと思っていたが、Runtastic で測ったら6km、京王線の鉄橋からの往復だと約7.5km。
このコースをよく走っていたのは高校時代だろうか、それとも大学時代か、記憶が定かではないが、少なくとも社会人になってから走った記憶はないので25年以上ぶり。
犬の散歩をする人、釣り人、小学校の遠足で行った五本松、狛江市に入ると舗装したサイクリング道路が切れて、砂利道になるところまで、30年前と一緒。変わったのは河川敷の草野球用のバックネットが、サッカーゴールになったことぐらいか。
私の卒業した小学校は富士見台の名が付いているが、今日も読売ランドの向こうに富士山がくっきり。
多摩川の風景
実家に泊まった機会に久し振りに多摩川の堤防を走ってみる。実家の近くから小田急線の鉄橋迄の往復は約5kmだと思っていたが、Runtastic で測ったら6km、京王線の鉄橋からの往復だと約7.5km。
このコースをよく走っていたのは高校時代だろうか、それとも大学時代か、記憶が定かではないが、少なくとも社会人になってから走った記憶はないので25年以上ぶり。
犬の散歩をする人、釣り人、小学校の遠足で行った五本松、狛江市に入ると舗装したサイクリング道路が切れて、砂利道になるところまで、30年前と一緒。変わったのは河川敷の草野球用のバックネットが、サッカーゴールになったことぐらいか。
私の卒業した小学校は富士見台の名が付いているが、今日も読売ランドの向こうに富士山がくっきり。
茶碗割り
平成最後の平日、日本初の10連休を翌日に迎えた金曜午後、妻から電話を貰ったが、会議中でとれず。
16:30頃、兄のメールで母の死を知った。
川島さんとの月に一度の青山荘での会食をパスし、父が帰った時には冷たくなっていたとのこと。
苦しんだ様子もなく、畳の上どころか、いつもの寝床の中で、文字通り眠るように息を引き取った。
常々、入院や手術はせず、寝たきりになってみんなに迷惑かけることもなく、ぽっくり逝きたいと言っていたので、これ以上ない最期ではあったと思う。
昨夏倒れて以来、三週間に一度くらい、父・妻と4人で外食するのが習慣となっていた。私の誕生日である29日も、たまたま予約出来たうかい亭あざみ野で、妻の両親も交えた6人でちょっと豪華な食事をすることになっており、(最近では電車に乗っての外出は辛くなっていたようで)「淳が迎えに来てくれるんだよね」と楽しみにしていたとのこと。
去年の夏以来、「生きていても何も楽しいこともない」とぼやいていたので、楽しみを抱いた中で亡くなったのも幸せだったと思いたい。
一緒に食事をする筈だった29日は朝から妻と実家へ行き、諸々準備。
仏壇を置くべく、床の間を片付けていたら、色々な思いが込み上げて来た。
二十代半ばで結婚して以来、典型的な昭和の猛烈社員を夫に持つ専業主婦だった母は、家で一人で過ごす時間が長かった筈。
この日当たりのいい居間の窓ぎわで延々とトランプ占いをしていたのを思い出す。
文学少女で花と自然を愛していた母はここからどれだけの時間、庭の花と、芝生を突くムクドリの姿を眺めていたのだろう。
最近では目が悪くなって、大好きな本も長くは読めなかったのは、どれだけ悲しかっただろう。(わかさ生活のブルーベリーアイの申込書とレシートが無造作に置いてあった。)
通夜では、不思議と涙が出なかった。
平成最後の日、告別式。
父と妻と三人で会場に向かう間、車のテレビではずっと美智子様の生涯をやっていた。父は平成天皇と同い歳、同じ「みち」を名前に持ち、決して前に出ようとせずに夫唱婦随を通した母は美智子様と被る。
去年の秋ぐらいからだろうか、妻に言われて、平日は毎朝8時頃に実家に電話するのが日課になっていた。
いつも母が電話をとって、すぐに父と代わるのが常だったが、ここ1か月ぐらいは父が出て、母には代わらずに切ることも多く、
死ぬ前日の朝、父に代わるまでのほんの数秒の会話が、母と交わした最後の会話になった。
私がブラジルにいる間、Face Timeをやろうと買い与えたiPadは結局使いこなせず、何年も前から持たせているガラ携も、文字化けだらけのメールを数行打つのがやっとなのに、2日前には携帯から妹のユキちゃんに電話していたと言う。 死期を悟っていたのだろうか?
妻が選んでくれたプレゼントを渡したときに、ちょっとはにかんだように「これ、私へなの?」と話す声、
毎朝電話したときに交わす短い会話の声、
出棺の際、ふと、声を録音したものがないことに気づき、初めて泣いた。
告別式後、30日(平成の大晦日)は父と二人だけで家に帰り、祭壇を整えて、父は手持ち無沙汰にNHKの7時のニュースを見ていたが、19:30頃には就寝。
昼間から雨が降ったりやんだりで、帰りの車の中も、父との会話は少なかった。
翌朝、(父がタバコを吸わないので)家にはマッチもライターも無いことに気づき、コンビニまで歩いてライターを買いに行く。
途中、前日に葬儀屋から言われた茶碗割りについて調べてみる。
「この世にはもうあなたの使うお茶碗はありません。戻ってきてももうご飯は食べられませんよ。だからあの世へ安らかに旅立っていって下さいね」
「生き返っても飯椀もないから、家族として一緒に食事をすることもないので、これでお別れですよという死者と遺族との決別の意味」
歩きながら、涙が止まらなくなった。
戻って線香をあげた後、父と縁側で茶碗を割った。
数年前から荒れ放題の家の掃除をしていたら、父が「コーヒーを入れたから来い」と言う。
いつも10時頃には母が入れた砂糖・ミルク入りのインスタント・コーヒーを2人で飲み、火曜と木曜は囲碁をしに外出するのだと説明した父は涙ぐんでいた。
昼には父に言われてお稲荷さんと海苔巻きを買って来て2人で食べた。
朝はパン、昼は母が買って来たお稲荷さんと海苔巻き、夜は母が炒め物などをして食べるのが日課だったらしい。
85年、私が大学の入学試験を終えた直後、父の福岡転勤について母も福岡へ。
2年後に東京に戻ったときには兄は就職して仙台へ、私は大学の近くで一人暮らしをしていたので、34年間、ほぼ、2人だけで暮らしていた両親。
父が72歳で週一勤務の相談役(その後76歳で完全引退)になってからの13年間はほぼ毎日同じ生活が繰り返されたことであろう。
朝5時に起きて、6時半にラジオ体操、パンとヨーグルトとバナナの朝食、10時のインスタント・コーヒー、お稲荷さんと海苔巻きの昼食、17時か18時の夕食。
共通の趣味を持たぬ両親は、二人での会話も限られていただろうが、それでも一緒に食事をし、お茶を飲み、父が巨人戦をテレビで見ているときには、
母がとなりで的外れなコメントをしたりしていたのだろう。
酒が強くない父が吉四六を飲むときには、全く酒を飲めない母がお湯割りセットを作っていたのだろう。
亭主関白の父が書斎で新聞や雑誌を読んでいるとき、台所の母に「おーい、お茶持って来てくれ」と声を掛けたりしたのだろう。
この1年、アルツハイマーが進んで来た母の面倒を見るのは父の負担になっていたと思っていた。(4月3日にはキャッシュカードを渡してPWも教えてしまい、3百万円ほど取られた。)
母は目が悪くなって大好きな本も満足に読めず、近所の友達も亡くなったり、転居してしまったりで、「長生きし過ぎた」とぼやいていた。
だけど、この何でもない日常こそ、二人にとっては幸せな時間だったのだろう。
母を失った父はこれからどうやって生きて行くのだろう?
1人で朝食をとり、一人でコーヒーを飲み、新聞を読んでいてお茶が欲しくなったとき、一人で昼食を摂り、一人で夕食を食べ、一人でテレビを見て、一人で床に就くとき、
父は母のいない現実を突きつけられるのだろう。
昭和11年、桑名の素封家諸戸家の大番頭の4人姉妹の三女として生まれた母は、子供の頃から全く自己主張をせず、おっとりしていたらしい。
運動神経はすこぶる悪く、自転車にも乗れなかった。(映画「青い山脈」を見て、自転車で草原を走ったら素敵だろうと思ったが、自分が自転車に乗れないことに気づいた、と言う話は母から何度も聞かされた。)
一方で頭はすこぶる良く、「女が大学なんて」と言う父親を説得するために、高校の校長先生が「東大を受けさせて下さい」と日参したらしい。
結局、東大ではなく、奈良女子大、得意だった理数系ではなく、国文学科に進み、高校の国語教師になった。
(私は負けず嫌いの精神と人並以上の運動神経は父から、理数系の能力は母から受け継いだのだろう。結局私も文系に進んだが。)
葬儀に名古屋から駆けつけてくれたユキちゃんは、子供の頃から決して怒らず、人を疑ったり、悪口を言ったことのない母のことが大好きで、みんなに自慢しに来たのだと言う。
私も怒られたこともなければ、母が誰かを怒ったところを見たこともない。
20代半ばで父と結婚して以来、ずっと専業主婦で、社会に出ることの無かった母、世が世なら、社会的な功績も残していたかも知れない。
お勝手でラジオを聴きながら家事をしていた母、二人の息子を育て上げ、親族と限られた友人にのみ、愛されていた母はそれでも幸せだったのだろうか?
私は兄と違い、両親と話をするのが苦手で、親不孝な息子だった。親の誕生日さえ覚えていなかった。
そんな私に、母の最後の21年間、まがりなりにも親孝行をさせてくれたのは妻である。
誕生日や父の日、母の日にはメッセージやプレゼントを贈り、
実家に電話をするように促し、
父とは一緒にゴルフを、
母とは3月生まれの母・義母・妻と3人で女だけの誕生会をやってくれたり、私の両親を愛してくれた。
出棺の際、限られた本数の胡蝶蘭を、父・兄・私の次に、(孫や兄嫁に気を遣うのも忘れて)自ら手を挙げて入れてくれた。
娘のいなかった両親も、実の娘のように妻を可愛がり、頼りにしてくれた。
特にブラジルから帰って来てからの2年は、一体何度4人で食事をしたことだろう。
楽しみにしてくれていた29日のうかい亭に行けなかったのは残念だが、母の83歳の誕生日を深大寺の水神苑で祝えたのは良かった。
一緒の食事は4月14日の牛角での焼肉が最後になった。
ぼんぼり(焼き鳥、人形町): 5.0
飲み放題メニューの日本酒セレクションが半端無い。
コスパ最高!